りゅう君のお散歩が終わったら国道442号線を竹田市方面へ進みます、
このまま国道57号線へ出てお家へ帰ろうかとも思いましたが昨年の11月にここへ来た時に気になっていた場所があるのでちょっとだけ寄り道をします、
国道442号線を走っていると犬のおまわりさんが見えてきました、このブログでも何度か紹介していますが童謡の 『犬のおまわりさん』 の作詞者は竹田市出身の佐藤義美さんなんですよね、
犬のおまわりさんを過ぎるとすぐに信号機がある交差点に出てこんな看板が見えてきました、
看板に従って左折するとすぐに国道442号線の旧道に出てまた看板が見えてきます、ここは去年の秋に 『たけた竹灯篭・竹楽』 を見に行く前にりゅう君のお散歩をしたところですがその時には 『殉空之碑』 がどこにあるのか分からなかったんですよね、詳しくは過去の記事の ここ をクリックして下さいね、
前回は道の駅・竹田から歩いて看板のところまで来たのでその先へは行きませんでしたが今回は車なので看板に従って先へ進みます、でも3km以上も距離があって道路は車がすれ違えないほど狭いのでちょっと不安です、
狭い農道のような道ですが運よく対向車にも会わずに2kmほど進むとまた看板がありました、でもこの先はまだ1kmもあるようです、
標識に従って民家も無いような山道を進むと前方に 『殉空之碑』 の看板と右へ上がって行く狭い道がありました、
看板に描かれている矢印が右を向いているのでこの狭い道を登って行った先に 『殉空之碑』 があるようです、
でもここにはこんな看板があってこの先は普通車では通れないほど狭い道のようです、
そして矢印には後から書き足したのか230m?と書かれていました、これくらいの距離なら歩いてもすぐですね、
ここが殉空之碑への入口です、入口は思ったよりも広くて車で行けそうな気もしましたが道はこの先でカーブしていて先が見えないので入口に車を停めて歩いて先の様子を見に行きます、
車から降りて歩き始めるとりゅう君はもうお散歩する気満々で歩きながら準備体操のブルブルをしています、
でも20mも行くと道はこんなに狭くなって普通車はとても通れそうになかったので一旦車に戻って道路脇のちょっと広いところに車を停め直しです、この辺りは駐車場も無いし道路も狭いですからね、
車を停め直して再出発です、200mも進むと道路は落ち葉で覆われたこんな道になってりゅう君もまだ先に行くの?って顔をしてこちらを振り返っています、
さらに進むとちょっと広いところに出て看板らしきものが立っていました、
看板には右向きの矢印とB29墜落の地と書かれていたのでもう間もなく殉空之碑があるようです、でも感覚的にはここまで既に500m近くは歩いたような気がするんですが・・・
看板に従って道路を右に曲がるとすぐに殉空之碑らしきものが見えてきました、このコンクリートの道は昨年竹田市からの助成などで造られたものでそれまでは雨が降るとぬかるむ未舗装の里道だったそうです、
殉空之碑の裏側です、文字が小さくてかすれているのでよく分かりませんがB29爆撃機の墜落の様子やその後の搭乗員の悲劇の事などが書かれています、そしてその下には犠牲となったB29搭乗員の名前が刻まれていました、
こちらは殉空之碑の表側です、
こちらにも犠牲となったB29搭乗員の名前が刻まれていました、B29爆撃機には12名の搭乗員が乗っていましたがパラシュートが開かなかったなどで現地で3名が死亡し助かった9名も機長を除く全員がその後に亡くなっています、関心のある人は相川事件等で検索してみて下さいね、
そして殉空之碑と刻まれた文字のすぐ横にはこのB29爆撃機に体当たり攻撃をして戦死した長崎県大村基地の343海軍航空隊の紫電改に搭乗していた粕谷飛行兵曹の名前も刻まれていました、粕谷飛行兵曹は学徒出身でこの時わずか19歳だったそうです、
殉空之碑のすぐ横の斜面にはB29爆撃機が墜落した時の様子を描いた碑もあってここがB29爆撃機の墜落した山の斜面のようです、
画像の左下にこの碑が僅かに写っていますが墜落したB29爆撃機の機体によって山の斜面がこんなに削り取られたんですね、
斜面の先の平地には 『米軍B29爆撃機墜落之地』 の文字が書かれた柱もありました、
この柱の先はさらに斜面が続いていたので墜落した機体の一部はさらに斜面を転がり落ちていったんでしょうか?
ここには石碑と小さな小屋のようなものもありました、
この石碑に刻まれている 『讃 工藤文夫 翁』 とはB29爆撃機が墜落した土地の持ち主で33回忌にあたる1977年に殉空之碑を私費及び有志を募って建立してそれ以降地元住民らによって毎年法要が行われているそうです、
小さな小屋の中にはこんなものもありました、熊本県の阿蘇上空で日本軍戦闘機の迎撃を受けて被弾し次々と搭乗員がパラシュートで脱出し大分県と熊本県の県境辺りで粕谷飛行兵曹の操縦する紫電改に体当たりされてこの地に墜落したようです、
当時の地元新聞に載ったB29爆撃機撃墜の記事です、
殉空之碑の見学が終わったら一旦国道442号線から国道57号線へ出てその後は国道502号線を通って道の駅みえ に新たに設置されたドッグランを見学してからお家へと向かいます。
このまま国道57号線へ出てお家へ帰ろうかとも思いましたが昨年の11月にここへ来た時に気になっていた場所があるのでちょっとだけ寄り道をします、
国道442号線を走っていると犬のおまわりさんが見えてきました、このブログでも何度か紹介していますが童謡の 『犬のおまわりさん』 の作詞者は竹田市出身の佐藤義美さんなんですよね、
犬のおまわりさんを過ぎるとすぐに信号機がある交差点に出てこんな看板が見えてきました、
看板に従って左折するとすぐに国道442号線の旧道に出てまた看板が見えてきます、ここは去年の秋に 『たけた竹灯篭・竹楽』 を見に行く前にりゅう君のお散歩をしたところですがその時には 『殉空之碑』 がどこにあるのか分からなかったんですよね、詳しくは過去の記事の ここ をクリックして下さいね、
前回は道の駅・竹田から歩いて看板のところまで来たのでその先へは行きませんでしたが今回は車なので看板に従って先へ進みます、でも3km以上も距離があって道路は車がすれ違えないほど狭いのでちょっと不安です、
狭い農道のような道ですが運よく対向車にも会わずに2kmほど進むとまた看板がありました、でもこの先はまだ1kmもあるようです、
標識に従って民家も無いような山道を進むと前方に 『殉空之碑』 の看板と右へ上がって行く狭い道がありました、
看板に描かれている矢印が右を向いているのでこの狭い道を登って行った先に 『殉空之碑』 があるようです、
でもここにはこんな看板があってこの先は普通車では通れないほど狭い道のようです、
そして矢印には後から書き足したのか230m?と書かれていました、これくらいの距離なら歩いてもすぐですね、
ここが殉空之碑への入口です、入口は思ったよりも広くて車で行けそうな気もしましたが道はこの先でカーブしていて先が見えないので入口に車を停めて歩いて先の様子を見に行きます、
車から降りて歩き始めるとりゅう君はもうお散歩する気満々で歩きながら準備体操のブルブルをしています、
でも20mも行くと道はこんなに狭くなって普通車はとても通れそうになかったので一旦車に戻って道路脇のちょっと広いところに車を停め直しです、この辺りは駐車場も無いし道路も狭いですからね、
車を停め直して再出発です、200mも進むと道路は落ち葉で覆われたこんな道になってりゅう君もまだ先に行くの?って顔をしてこちらを振り返っています、
さらに進むとちょっと広いところに出て看板らしきものが立っていました、
看板には右向きの矢印とB29墜落の地と書かれていたのでもう間もなく殉空之碑があるようです、でも感覚的にはここまで既に500m近くは歩いたような気がするんですが・・・
看板に従って道路を右に曲がるとすぐに殉空之碑らしきものが見えてきました、このコンクリートの道は昨年竹田市からの助成などで造られたものでそれまでは雨が降るとぬかるむ未舗装の里道だったそうです、
殉空之碑の裏側です、文字が小さくてかすれているのでよく分かりませんがB29爆撃機の墜落の様子やその後の搭乗員の悲劇の事などが書かれています、そしてその下には犠牲となったB29搭乗員の名前が刻まれていました、
こちらは殉空之碑の表側です、
こちらにも犠牲となったB29搭乗員の名前が刻まれていました、B29爆撃機には12名の搭乗員が乗っていましたがパラシュートが開かなかったなどで現地で3名が死亡し助かった9名も機長を除く全員がその後に亡くなっています、関心のある人は相川事件等で検索してみて下さいね、
そして殉空之碑と刻まれた文字のすぐ横にはこのB29爆撃機に体当たり攻撃をして戦死した長崎県大村基地の343海軍航空隊の紫電改に搭乗していた粕谷飛行兵曹の名前も刻まれていました、粕谷飛行兵曹は学徒出身でこの時わずか19歳だったそうです、
殉空之碑のすぐ横の斜面にはB29爆撃機が墜落した時の様子を描いた碑もあってここがB29爆撃機の墜落した山の斜面のようです、
画像の左下にこの碑が僅かに写っていますが墜落したB29爆撃機の機体によって山の斜面がこんなに削り取られたんですね、
斜面の先の平地には 『米軍B29爆撃機墜落之地』 の文字が書かれた柱もありました、
この柱の先はさらに斜面が続いていたので墜落した機体の一部はさらに斜面を転がり落ちていったんでしょうか?
ここには石碑と小さな小屋のようなものもありました、
この石碑に刻まれている 『讃 工藤文夫 翁』 とはB29爆撃機が墜落した土地の持ち主で33回忌にあたる1977年に殉空之碑を私費及び有志を募って建立してそれ以降地元住民らによって毎年法要が行われているそうです、
小さな小屋の中にはこんなものもありました、熊本県の阿蘇上空で日本軍戦闘機の迎撃を受けて被弾し次々と搭乗員がパラシュートで脱出し大分県と熊本県の県境辺りで粕谷飛行兵曹の操縦する紫電改に体当たりされてこの地に墜落したようです、
当時の地元新聞に載ったB29爆撃機撃墜の記事です、
殉空之碑の見学が終わったら一旦国道442号線から国道57号線へ出てその後は国道502号線を通って道の駅みえ に新たに設置されたドッグランを見学してからお家へと向かいます。
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