南立石公園の枝垂れ梅を見たら日出町(ひじまち)へ向かいました。
今回日出町を訪れて車を停めたのは日出城址の目の前にある観光物産館の 『二の丸館』 です。ここは駐車場が広くて日出城址へは歩いてすぐのところなのでとっても便利です。
駐車場に車を停めて足元を見たらこんなカラフルなマンホールの蓋がありました。マンホールに描かれていたのは日出城址の下の真水が湧く海域で獲れる 『城下(しろした)かれい』 と日出町にあるサンリオキャラクターの屋外型テーマパーク 『ハーモニーランド』 のハローキティちゃんです。
二の丸館の駐車場に車を停めて歩き始めるとすぐにこんな標識が見えてきます。全ての観光施設が200m以内にあるなんて観光客にとってはありがたいですよね(笑)
標識のあったところから見えるのはこんな景色です。右側の白壁が見えているのところが車を停めた二の丸館で、左側の松の木が植えられているところは日出城址になります。
日出藩は3万石の小さな藩ですが、初代藩主の木下延俊は太閤秀吉の正室ねねの甥で、徳川幕府から豊臣姓を名乗ることを許されていたそうです。そして延俊の父親の家定はねねの兄にあたり備中足守藩の藩祖ですが、家定には6人の男子がいて五男は小早川家の養子となった小早川秀秋だそうです。
歩き始めてまず見えてくるのはメガネをかけた青年の銅像です。この銅像の人物は明治時代の音楽家の 『瀧廉太郎』 です。
瀧廉太郎は幼い頃に住んでいた竹田市の岡城址をイメージして作曲した 『荒城の月』 が有名ですが、瀧家は元々は日出藩の家老職の家柄なので日出町には瀧廉太郎の墓所もあります。
瀧廉太郎の銅像のすぐ横には日出城の大手門跡がありますが、今は城内に建てられた日出小学校の正門になっていて昔の面影はほとんど残っていません。
日出城は3代藩主の木下俊長が中国の古書から暘谷城と名付けたといわれています。石碑の後ろに見える石塀の上には円柱を縦に割ったような石が乗せられていますが、これはカマボコ石といって珍しいものだと日出城址について説明をしてくれたおじさんが言っていました。
日出城址は別府湾に面した高台に造られお城なので、お堀の間からは別府湾が見えます。海が天然のお堀の役目をするので、このお堀は昔から空堀だったんでしょうね。
今回は画像が多くなり過ぎるので、次も日出城址についての記事です。
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今回日出町を訪れて車を停めたのは日出城址の目の前にある観光物産館の 『二の丸館』 です。ここは駐車場が広くて日出城址へは歩いてすぐのところなのでとっても便利です。
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二の丸館の駐車場に車を停めて歩き始めるとすぐにこんな標識が見えてきます。全ての観光施設が200m以内にあるなんて観光客にとってはありがたいですよね(笑)
標識のあったところから見えるのはこんな景色です。右側の白壁が見えているのところが車を停めた二の丸館で、左側の松の木が植えられているところは日出城址になります。
日出藩は3万石の小さな藩ですが、初代藩主の木下延俊は太閤秀吉の正室ねねの甥で、徳川幕府から豊臣姓を名乗ることを許されていたそうです。そして延俊の父親の家定はねねの兄にあたり備中足守藩の藩祖ですが、家定には6人の男子がいて五男は小早川家の養子となった小早川秀秋だそうです。
歩き始めてまず見えてくるのはメガネをかけた青年の銅像です。この銅像の人物は明治時代の音楽家の 『瀧廉太郎』 です。
瀧廉太郎は幼い頃に住んでいた竹田市の岡城址をイメージして作曲した 『荒城の月』 が有名ですが、瀧家は元々は日出藩の家老職の家柄なので日出町には瀧廉太郎の墓所もあります。
瀧廉太郎の銅像のすぐ横には日出城の大手門跡がありますが、今は城内に建てられた日出小学校の正門になっていて昔の面影はほとんど残っていません。
日出城は3代藩主の木下俊長が中国の古書から暘谷城と名付けたといわれています。石碑の後ろに見える石塀の上には円柱を縦に割ったような石が乗せられていますが、これはカマボコ石といって珍しいものだと日出城址について説明をしてくれたおじさんが言っていました。
日出城址は別府湾に面した高台に造られお城なので、お堀の間からは別府湾が見えます。海が天然のお堀の役目をするので、このお堀は昔から空堀だったんでしょうね。
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