シーガーデン・ひじを出発したら少しだけ日出町内を散策します、
海鮮・一八でお昼ご飯を食べたらこのままお家へ帰ってもよかったんですがせっかく雨も止んでいる事だからすぐ近くにある日出町特産の城下(しろした)カレイで有名な暘谷城址(日出城址)へと向かいます、
シーガーデン・ひじ から国道10号線へ出て1,2分ほど北へ走り右折して日出町の商店街を過ぎるとすぐに白壁の土塀とこんな標識が見えてきます、
標識に従って白壁の土塀が続く道を進んで観光案内所の二の丸館に車を停めたらりゅう君のお散歩開始です、
暘谷城(日出城)のある日出藩の藩祖は北政所ねねの甥の木下延俊で関が原の合戦の功績により日出藩3万石が与えられてその後移封される事もなく明治時代まで続いた豊臣秀吉ゆかりの数少ない大名です、
日出城は別府湾に面して築城されているので城址のお散歩を始めたらすぐに海が見えてきます、この坂道を下った先はもう別府湾です、
坂道を下って海岸沿いの遊歩道まで来ました、右手には海に張り出すように石垣が築かれていますが3万石の小さな藩とは思えないほど立派な石垣が続く城址ですね、
そして石垣のすぐ前は別府湾です、この一帯の海は海底から清水が湧き出していて日本で最初のグルメ本といわれている 『美味求真』 を執筆した明治の政治家の木下謙次郎が絶賛した日本の名物料理八選にも選ばれた城下カレイが採れるところです、
城下海岸と城下カレイの説明板です、城下カレイは超高級魚で地元に住んでいても本物はまず食べる事が出来ないほどなんですよねぇ~(笑)
日出藩は2代藩主の時に所領の一部を弟に分与した事で2万5千石になりましたが城の縄張りをしたのが初代藩主の義兄の細川忠興だったからか?または豊臣秀吉の遠戚だったからか?お城は石垣が幾重にも折り重なっていて小大名のお城とは思えない立派な城址です、そして日出藩分家の立石領として分与を受けた弟についても実際は豊臣秀頼の子の国松だったのではないかとの説もあるそうです、
お散歩の途中で急に立ち止まったりゅう君のお尻の下には何やら落し物らしきものが・・・、これってもしかしてりゅう君のウ〇チかな?と思ってよく見たらマツボックリでした(笑)
別府湾が望める海岸付近のお散歩が終わったら本丸跡周辺をお散歩です、でも日出城の本丸跡は小学校になっているので中へは入れずお堀の周囲しかお散歩が出来ません、
周囲には白壁の家が続いていて城下カレイのこて絵もありました、
ここには明治の音楽家で荒城の月などの作曲で有名な滝廉太郎の銅像もありました、滝家は日出藩の家老職を務めた上級武士でお墓もこのすぐ近くにあります、過去の記事の ここ をクリックしてみて下さいね、
さらにお散歩を続けていると復元された隅櫓がありました、
櫓の入口には隅櫓ではなく鬼門櫓と書かれていました、
説明板によるとこの隅櫓は災いを招くといわれる鬼門(東北)の方角の隅を欠いた特異な構造で日出城以外ではみられないと書かれていました、
鬼門櫓の内部は見学ができるようになっていましたが、ワンコは立入禁止だろうと思ってりゅうママが見学している間外で待っていたら係のおじさんがワンコも入っていいよって言ってくれたのでさっそくりゅう君を連れて内部の見学です、
鬼門櫓の内部は二階建てになっていて一階には色んな展示物があり急な階段を登って二階に上がると建物の隅には液晶テレビがあって映像が見られるようになっていました、説明をしてくれたおじさんの話ではここが鬼門の方角で隅を欠いた構造になっていると言われましたが素人目にはただのテレビ台があるだけにしか見えませんでした(笑)
鬼門櫓の内部の見学が終わってもう一度外から隅櫓を眺めてみると東北の方角の隅だけはこの様に板壁も屋根も隅が欠けていました、
お散歩が終わって車を停めた観光案内所と物産館を兼ねた二の丸館まで戻って来ました、ここにはこんなポスターがありました、日出町には戦争中に人間魚雷・回天の基地があったんですよね、過去の記事の ここ と ここ をクリックしてみて下さいね、
日出城の見学が終わったらお家へ戻りますが、りゅう君は途中で田ノ浦ビーチへ寄ってお散歩です、でもりゅう君はお散歩もせずに吠えまくっています、足元に開いた穴の中から生き物の気配でも感じているんでしょうか?
りゅうママが小枝を穴の中に入れてみましたが穴が深くて奥まで届きませんでした(笑)
田ノ浦ビーチでのお散歩が終わったらもうお家へ帰るだけです、りゅう君はいつものように座ったままでウトウトしています、でもりゅう君はお出かけの時には距離や時間に関係なく帰り道以外ではほとんどウトウトする事がありませんがこの先はもうお散歩をしないってなぜ分かるんでしょうね?
海鮮・一八でお昼ご飯を食べたらこのままお家へ帰ってもよかったんですがせっかく雨も止んでいる事だからすぐ近くにある日出町特産の城下(しろした)カレイで有名な暘谷城址(日出城址)へと向かいます、
シーガーデン・ひじ から国道10号線へ出て1,2分ほど北へ走り右折して日出町の商店街を過ぎるとすぐに白壁の土塀とこんな標識が見えてきます、
標識に従って白壁の土塀が続く道を進んで観光案内所の二の丸館に車を停めたらりゅう君のお散歩開始です、
暘谷城(日出城)のある日出藩の藩祖は北政所ねねの甥の木下延俊で関が原の合戦の功績により日出藩3万石が与えられてその後移封される事もなく明治時代まで続いた豊臣秀吉ゆかりの数少ない大名です、
日出城は別府湾に面して築城されているので城址のお散歩を始めたらすぐに海が見えてきます、この坂道を下った先はもう別府湾です、
坂道を下って海岸沿いの遊歩道まで来ました、右手には海に張り出すように石垣が築かれていますが3万石の小さな藩とは思えないほど立派な石垣が続く城址ですね、
そして石垣のすぐ前は別府湾です、この一帯の海は海底から清水が湧き出していて日本で最初のグルメ本といわれている 『美味求真』 を執筆した明治の政治家の木下謙次郎が絶賛した日本の名物料理八選にも選ばれた城下カレイが採れるところです、
城下海岸と城下カレイの説明板です、城下カレイは超高級魚で地元に住んでいても本物はまず食べる事が出来ないほどなんですよねぇ~(笑)
日出藩は2代藩主の時に所領の一部を弟に分与した事で2万5千石になりましたが城の縄張りをしたのが初代藩主の義兄の細川忠興だったからか?または豊臣秀吉の遠戚だったからか?お城は石垣が幾重にも折り重なっていて小大名のお城とは思えない立派な城址です、そして日出藩分家の立石領として分与を受けた弟についても実際は豊臣秀頼の子の国松だったのではないかとの説もあるそうです、
お散歩の途中で急に立ち止まったりゅう君のお尻の下には何やら落し物らしきものが・・・、これってもしかしてりゅう君のウ〇チかな?と思ってよく見たらマツボックリでした(笑)
別府湾が望める海岸付近のお散歩が終わったら本丸跡周辺をお散歩です、でも日出城の本丸跡は小学校になっているので中へは入れずお堀の周囲しかお散歩が出来ません、
周囲には白壁の家が続いていて城下カレイのこて絵もありました、
ここには明治の音楽家で荒城の月などの作曲で有名な滝廉太郎の銅像もありました、滝家は日出藩の家老職を務めた上級武士でお墓もこのすぐ近くにあります、過去の記事の ここ をクリックしてみて下さいね、
さらにお散歩を続けていると復元された隅櫓がありました、
櫓の入口には隅櫓ではなく鬼門櫓と書かれていました、
説明板によるとこの隅櫓は災いを招くといわれる鬼門(東北)の方角の隅を欠いた特異な構造で日出城以外ではみられないと書かれていました、
鬼門櫓の内部は見学ができるようになっていましたが、ワンコは立入禁止だろうと思ってりゅうママが見学している間外で待っていたら係のおじさんがワンコも入っていいよって言ってくれたのでさっそくりゅう君を連れて内部の見学です、
鬼門櫓の内部は二階建てになっていて一階には色んな展示物があり急な階段を登って二階に上がると建物の隅には液晶テレビがあって映像が見られるようになっていました、説明をしてくれたおじさんの話ではここが鬼門の方角で隅を欠いた構造になっていると言われましたが素人目にはただのテレビ台があるだけにしか見えませんでした(笑)
鬼門櫓の内部の見学が終わってもう一度外から隅櫓を眺めてみると東北の方角の隅だけはこの様に板壁も屋根も隅が欠けていました、
お散歩が終わって車を停めた観光案内所と物産館を兼ねた二の丸館まで戻って来ました、ここにはこんなポスターがありました、日出町には戦争中に人間魚雷・回天の基地があったんですよね、過去の記事の ここ と ここ をクリックしてみて下さいね、
日出城の見学が終わったらお家へ戻りますが、りゅう君は途中で田ノ浦ビーチへ寄ってお散歩です、でもりゅう君はお散歩もせずに吠えまくっています、足元に開いた穴の中から生き物の気配でも感じているんでしょうか?
りゅうママが小枝を穴の中に入れてみましたが穴が深くて奥まで届きませんでした(笑)
田ノ浦ビーチでのお散歩が終わったらもうお家へ帰るだけです、りゅう君はいつものように座ったままでウトウトしています、でもりゅう君はお出かけの時には距離や時間に関係なく帰り道以外ではほとんどウトウトする事がありませんがこの先はもうお散歩をしないってなぜ分かるんでしょうね?
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