道の駅「鹿北」を出発したら国道3号をさらに南下しました。
しばらくするとこの様な標識が見えてきて、この先で国道3号を左折するとすぐに山鹿温泉などがある山鹿市街地ですが、まずは市街地へ向かわずに標識にも載っていない右側の狭い道へと右折しました。
右折して田んぼが広がる中の道を数百mも走ると、県道へ出て道路沿いには「チブサン古墳」と書かれた見逃してしまいそうな小さな標識が見えてきたので、矢印に従ってここを左折しました。
左折した先はさらに狭い道となって、車一台がやっと通れるほどの道を丘の頂上を目指して登って行くと、十字路に出て「オブサン古墳、チブサン古墳」と書かれた標識が見えてきました。
十字路には「西南戦争激戦地 岩間間道」と書かれた木柱も立っていました。西南戦争最大の激戦地といわれる田原坂はここから直線距離で10㎞ほどのところにあるので、この辺りでも官軍と薩軍との激しい戦闘が行われたんでしょうね?
そしてここには「西南之役 薩軍 村田三介 戦死之地」と刻まれた大きな石碑もありました。村田三介はあまり馴染みのない名前で諸説がありますが、官軍の乃木希典から軍旗を奪ったと言われている人物です。
石碑の前を通り過ぎるとすぐに駐車場が見えてきたのでここに車を停めました。ここは古墳見学用の駐車場ですが、この様な駐車場が3ヶ所ほどあってトイレもありました。
駐車場からは丘の斜面を下ってまずはオブサン古墳へと向かいますが、斜面の樹木が繁った中にはこの様な石棺がいくつもありました。
丘の斜面には古墳への階段も設置されていますが、オブサン古墳の案内板などは無くて、駐車場からもオブサン古墳は全く見えないので、近くで農作業をしていたおじさんにオブサン古墳の場所を聞きましたが、もし誰もいなかったら諦めて帰っていたかもしれませんね。
樹木がうっそうと繁った中にある階段を降りると、いきなり視界が開けて芝生広場のようなところに大きな円墳が見えてきました。これが直径22m、墳丘の高さが5mのオブサン古墳です。
オブサン古墳は6世紀の古墳時代に造られたと言われる古墳ですが、正面から見ると普通の円墳とは異なって、石室の入口付近が大きく広がっていて、この形が女性が子供を産む時の姿に似ていることから「産さん ⇒ オブサン」と呼び名が変化していったと言われています。
ここが石室の入口です。天井部などには巨大な石が置かれていますが、重機などが無かった時代にどうやってこの様な巨石を運んできて積み上げたのか不思議ですね。
オブサン古墳は内部にも入れるようになっていて、石棺が置かれていた石室の前からは柵越しに内部を覗けるようになっていました。
オブサン古墳のすぐ近くには「オブサン古墳出土遺物 展示コーナー」と書かれた看板もありました。
これがオブサン古墳からの出土品のレプリカを展示したところです。ここには石室を閉塞していた平らな石や、出土した副葬品などがありました。
出土した副葬品のレプリカは壁面に設けられたガラス張りの小さな覗き窓のようなところから見ることができました。
オブサン古墳は一般的な古墳とは異なって、古墳時代に造成されて以降に平安時代になってからもお墓として追葬が行われ、明治時代になって西南戦争が起こると薩軍の陣地としても利用されたので、石室の閉塞石には当時の戦闘による弾痕がたくさん残っていました。
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しばらくするとこの様な標識が見えてきて、この先で国道3号を左折するとすぐに山鹿温泉などがある山鹿市街地ですが、まずは市街地へ向かわずに標識にも載っていない右側の狭い道へと右折しました。
右折して田んぼが広がる中の道を数百mも走ると、県道へ出て道路沿いには「チブサン古墳」と書かれた見逃してしまいそうな小さな標識が見えてきたので、矢印に従ってここを左折しました。
左折した先はさらに狭い道となって、車一台がやっと通れるほどの道を丘の頂上を目指して登って行くと、十字路に出て「オブサン古墳、チブサン古墳」と書かれた標識が見えてきました。
十字路には「西南戦争激戦地 岩間間道」と書かれた木柱も立っていました。西南戦争最大の激戦地といわれる田原坂はここから直線距離で10㎞ほどのところにあるので、この辺りでも官軍と薩軍との激しい戦闘が行われたんでしょうね?
そしてここには「西南之役 薩軍 村田三介 戦死之地」と刻まれた大きな石碑もありました。村田三介はあまり馴染みのない名前で諸説がありますが、官軍の乃木希典から軍旗を奪ったと言われている人物です。
石碑の前を通り過ぎるとすぐに駐車場が見えてきたのでここに車を停めました。ここは古墳見学用の駐車場ですが、この様な駐車場が3ヶ所ほどあってトイレもありました。
駐車場からは丘の斜面を下ってまずはオブサン古墳へと向かいますが、斜面の樹木が繁った中にはこの様な石棺がいくつもありました。
丘の斜面には古墳への階段も設置されていますが、オブサン古墳の案内板などは無くて、駐車場からもオブサン古墳は全く見えないので、近くで農作業をしていたおじさんにオブサン古墳の場所を聞きましたが、もし誰もいなかったら諦めて帰っていたかもしれませんね。
樹木がうっそうと繁った中にある階段を降りると、いきなり視界が開けて芝生広場のようなところに大きな円墳が見えてきました。これが直径22m、墳丘の高さが5mのオブサン古墳です。
オブサン古墳は6世紀の古墳時代に造られたと言われる古墳ですが、正面から見ると普通の円墳とは異なって、石室の入口付近が大きく広がっていて、この形が女性が子供を産む時の姿に似ていることから「産さん ⇒ オブサン」と呼び名が変化していったと言われています。
ここが石室の入口です。天井部などには巨大な石が置かれていますが、重機などが無かった時代にどうやってこの様な巨石を運んできて積み上げたのか不思議ですね。
オブサン古墳は内部にも入れるようになっていて、石棺が置かれていた石室の前からは柵越しに内部を覗けるようになっていました。
オブサン古墳のすぐ近くには「オブサン古墳出土遺物 展示コーナー」と書かれた看板もありました。
これがオブサン古墳からの出土品のレプリカを展示したところです。ここには石室を閉塞していた平らな石や、出土した副葬品などがありました。
出土した副葬品のレプリカは壁面に設けられたガラス張りの小さな覗き窓のようなところから見ることができました。
オブサン古墳は一般的な古墳とは異なって、古墳時代に造成されて以降に平安時代になってからもお墓として追葬が行われ、明治時代になって西南戦争が起こると薩軍の陣地としても利用されたので、石室の閉塞石には当時の戦闘による弾痕がたくさん残っていました。
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