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泉福寺 石風呂を出発したら県道716号線をさらに先へ進みます。
 

県道716号線を進んで安心院町へ入ったら、道路沿いに 『佐田社 板碑・反射炉跡』 の看板が見えてきます。
 
 
 

佐田神社の大きな鳥居がある参道は別のところにありますが、看板の立っているところから石段を登って行くと4基の板碑がありました。このうち2つは1300年代に建てられたもので、梵字も刻まれていて県指定の有形文化財にも指定されているそうです。 でも苔むして風化している板碑の表面は刻まれている梵字が薄っすらと分かる程度でした。




これはここへ来る途中の大年社にあった板碑ですが、刻まれた梵字がよく分かりますね。この梵字は ゛バン ゛と読んで金剛界の大日如来を表すそうです。前記事でも書きましたが、板碑は板状に加工されているので、板碑が廃れていった後は造作のし易さから石風呂などに利用されたんでしょうね。




佐田神社は中世に建てられた供養塔の一種の板碑が有名ですが、ここには江戸時代末期に地元の豪商が民間では初めてといわれる反射炉を造って大砲の製造を行っていたそうです。反射炉は跡形もありませんが、反射炉に使われた耐火レンガは今でも残っているそうです。




説明板に書かれていた反射炉に使われていた耐火レンガを見ようと本殿へ向かいました。この建物が佐田神社の拝殿とその奥の本殿です。
 
 
 

拝殿の中を覗いたら寄進されたたくさんの絵馬などがありましたが、いずれも時代を感じさせる古いものばかりで、左端の馬に乗った軍人は日露戦争で活躍した乃木希典大将でしょうか?
 
 
 

本殿の裏に廻ろうとしたら、ちょっと不気味な亀か龍か分からないような像がありました。そしてその後ろには反射炉の耐火レンガを積んだ土塀がありました。




耐火レンガの表面は黒くてピカピカに光っていたので、鉄と一緒に溶けた不純物が表面で固まったんでしょうか? 反射炉を造った賀来惟熊(かくこれたけ)は8門の鉄製砲を造って島原藩、日出藩、佐伯藩に配備されていたそうです。こんな山奥に当時の最先端技術の反射炉が幕府等の援助も受けずに、民間人の手によって初めて造られたなんてちょっとビックリですね。
地中探査によって反射炉の位置は判明しているそうなので、発掘してその姿を見せてもらいたいものですね。 


   
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