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道の駅「桃山天下市」を出発したら、国道204号を西へ向かってさらに先へと進みました。


これは名護屋城跡の入口付近に掲示されていた名護屋城周辺の地図ですが、書かれている文字は全て大名の名前で、豊臣秀吉の命令で全国から集結した諸大名が陣を構えた場所を表しているんですよね。




ここには地図とは別に陣を構えていた諸大名の一覧表もありました。これを見ると陣跡は大名の名前が不明なものを含めると158もありました。天下を統一した豊臣秀吉の強大さがよく分かりますね。




陣跡は名護屋城を中心にして至る所にありますが、ここは名護屋城からは少し離れた呼子町の近くにあった伊達政宗の陣跡の看板です。




この看板が立っているのは路線バスの停留所ですが、バス停の名前は伊達政宗陣跡と書かれていました。




そして交差点の名前も伊達政宗陣跡でした。




これは名護屋城跡に立てられていた案内板です。木下延俊は豊後日出藩の初代藩主ですが、北政所おねの甥にあたる人物で、豊臣秀吉とは姻戚関係だったので、名護屋城により近い場所に陣を構えていたんでしょうね? 秀吉が警戒していたといわれる徳川家康や伊達政宗、島津義弘などの陣は名護屋城からは数kmも離れているんですよね。




道の駅「桃山天下市」を出発して国道204号を西へ向かって走り始めると、すぐに加藤清正陣跡東という交差点に出ました。加藤清正も秀吉子飼いの大名ですからね。




ここにはこの様な案内板が立てられていました。これを見ると加藤清正や福島正則など秀吉子飼いの武将は名護屋城の近くに陣を構えて、敵対していた武将などは遠くに陣を構えていたのがよく分かりますね。




これは秀吉子飼いの武将の加藤清正、福島正則の陣跡の看板です。




以前ここを訪れた時にはこの様な陣跡を示す木柱が立っているだけでしたが、今は主だった大名については説明書きもある立派な看板に変わっていました。でも実際に発掘調査が行われているのは、158ある陣跡のうちのわずか10ヶ所ほどなんですよね。




これは堀秀治陣跡の看板です。堀秀治は越後高田藩の初代城主ですが、陣を構えていた諸大名のなかでは最年少の16歳だったそうです。




ここにはこの様な説明書きもありました。堀秀治は18万石から45万石まで加増されて大出世した大名でしたが、その子供の忠俊の代には改易されています。加藤清正は子供の代で、福島正則は一代限りで改易されているんですよね。戦国大名の生存競争はとても厳しかったんですね。




ここは看板の後ろが陣跡で駐車場もありますが、ここから眺めてもただの荒れ地って感じで、どこに何があったのか全く分かりませんでした。




道路沿いに立てられている看板のなかには「鍋島直茂 陣跡」と書かれたものもありました。鍋島直茂は肥前佐賀藩35万7千石の藩祖といわれた人物ですが、戦国時代を生き抜いた勝ち組のひとりともいえるでしょうね。



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