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平和公園の見物が終わった時には、予定よりもかなり時間が下がっていたので、長崎市を出発して次の目的地へ向かいたかったんですが、どうしても見たいところがまだいくつかあったので、もう少しだけ平和公園の周囲を散策しました。


どうしても見たかったのは「如己堂(にょこどう)」と「浦上天主堂」です。この画像はしばらく歩いてから見えてきた標識を撮影したので、平和公園からの実際の距離はそれぞれ250mと700mほどありました。




最初に向かったのは「如己堂」ですが、平和公園から200mほど歩くと坂道が見えてきました。長崎市内は坂道がとても多いところで、どこへ行くのも坂道ばかりなので、お年寄りには優しくない町なんですよね(笑)




この坂道は「サントス通り」といいますが、名前の由来は長崎市の姉妹都市のブラジルのサントス市から名付けたそうです。




サントス通りの坂道を登り切った右手に見えるコンクリート造りの建物が、次の目的地の「如己堂」があるところです。




コンクリート造りの建物の正面はこの様になっていて、奥へ進んだところには建物の入口があって、手前の左側には数段の階段がありました。




ここにはこの様な案内板があって、真っすぐに進んだ先のコンクリート造りの建物は「長崎市 永井隆記念館」で、左の階段を登った先には次の目的地の「如己堂」があります。




ここが「長崎市永井隆記念館」の入口です。館内は1階の展示室と2階の図書館に分かれていて、展示室には永井隆に関する様々な資料が展示されていて、図書館には永井隆の著書もあるそうです。そして入館料(15歳以上)は100円ですが、小中高生は無料だそうです。




そして左の階段を登った先にある小さな木造の建物が「如己堂」です。ここは無料で自由に見学することができます。




ここが古関裕而さんの作曲で有名な歌謡「長崎の鐘」のモデルとなった永井隆博士が、長崎医大で勤務中に原爆で重傷を負って、亡くなるまで過した二畳一間の小さな部屋で、ここで白血病の療養をしながら執筆活動を行ったそうです。




如己堂の説明板です。これを読むと放射線医師だった永井博士は原爆に遭う前にすでに白血病になっていて、原爆では妻を亡くして本人も大けがを負っているんですね。




如己堂はガラス越しに室内を自由に撮影、見学ができます。




わずか二畳の部屋にはマリア像も置かれていました。永井博士は妻と共に敬虔なクリスチャンでしたが、妻は原爆の直撃に遭って、焼け跡からはロザリオのみが見つかったそうです。長崎の鐘の歌詞の中にもロザリオやマリアなどの言葉が出てきますよね。そしてこの二畳一間の建物も被爆した信者たちによって博士のために建てられたそうです。




室内には永井博士が執筆した著書がいくつか置かれていました。著書は左から「乙女峠」、「生命の河」、「花咲く丘」、「私たちは長崎にいた」ですが、有名な随筆の「長崎の鐘」や「この子を残して」などは見当たりませんでした。




ここには永井博士のデスマスクもありました。永井博士がこの二畳一間の部屋で亡くなるまでを過ごしたのは1948年3月から1951年5月までのわずか3年間だったんですね。
ここを出発したすぐ近くにある「浦上天主堂」へと向かいますが、浦上天主堂には2つの鐘(アンジェラスの鐘)があって、そのうちのひとつが原爆投下後に瓦礫の中から掘り出されて、その年のクリスマスイブに鳴らされたそうで、その時に鐘の音を聞いた永井隆博士が残したのが「新しき朝の光さしそむる 荒野に響け 長崎の鐘」という言葉で、これ以降アンジェラスの鐘が「長崎の鐘」と言われるようになったそうです。



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