道の駅「松浦 ふるさと館」を出発したら、昨日も訪れた佐世保市から西海市方面へと進みます。
道の駅からは最短距離で西海市方面へ向かったので、北松浦半島を横断する県道40号を走りましたが、県道40号は海沿いにある道の駅を出発するとすぐに、この道は車で登れるの?って思えるほどの急坂の山道となって、ちょっとビックリしました(笑)
急坂を登り切ってさらに先へ進むと、正面にどこかで見たことがあるようなコンクリートの橋が見えてきました。この橋は松浦鉄道の「福井川橋梁」ですが、戦時中に架けられた竹筋コンクリートの橋で、以前このブログで載せた小国町の廃線となった宮原線に架かる「幸野川橋梁」と構造もデザインもそっくりでした。
今回は二日目には長崎市内の観光をする予定だったので、西海橋の手前までやって来ましたが、朝から再び降り始めた雨はここへ来てもまだ止まなかったので、長崎市へ向かうのは諦めて、昨日西海橋を訪れた時に気になっていた「浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園」へ寄ることにしました。長崎市内の観光は歩いて廻るところばかりなので、天気のいい日にゆっくりと見物をしたいですからね。
標識に従って道路を右折して500mも進むと、左側に「浦頭引揚記念平和公園」の入口が見えてきました。でもここは入口が狭くてちょっと分かり難いので、気を付けないと通り過ぎてしまいそうなところでした。
急坂を登ると広場のようになった駐車場とガラス張りの建物が見えてきますが、ここが佐世保市針尾北町にある「浦頭引揚記念平和公園」です。そしてこの建物は「浦頭引揚記念資料館」です。ここへ到着した時は資料館が開館する30分ほど前だったので、開館時間になるまで周辺を見て廻ります。ちなみにこの資料館の見学は無料です。
ここは敷地はあまり広くありませんが、まず目を引いたのは資料館の裏手に建っている「浦頭引揚記念平和の像」です。この像は高台に建っていましたが、高さが10mはありそうな大きな像でした。
そして平和の像の下部には、苦労の末に帰還して日本本土の土を踏んだ引揚者と、それを待ちわびていた母子の像が建っていました。
ここにはこの様な碑もありました。引揚といえば京都の舞鶴港で息子の帰りを待つ母の姿を歌った、二葉百合子さんの「岸壁の母」が有名ですが、田畑義男さんが歌って昭和21年にヒットした「かえり船」も復員兵の未練を描いた歌なんですよね。
ここにはこの様な案内が書かれた石柱もあったので、資料館の見学を済ませたら揚陸地となった波止場へも行ってみます。
浦頭引揚記念平和公園は高台にあるので、ここからは引揚者の揚陸地となった佐世保湾(浦頭港)を望むことができます。
この時は湾内に一隻の艦船が停泊していました。この艦船は米海軍のミサイル駆逐艦 ハワードのようでした。戦後も軍港として栄えている佐世保では、至る所からこの様な光景が見れるんですよね。
しばらく公園内を見て廻っていたら資料館の開館時間となったので、さっそく館内へ入りました。受付の人に聞いたら館内の展示物はすべて撮影OKとのことでした。
たくさんある展示物の中には、実際の引揚に使用され浦頭港に入港した船舶の写真もありました。戦後の海外からの引揚事業では旧日本海軍の駆逐艦や民間の客船、米軍の艦船などを総動員して、軍人、一般人合わせて600万人以上が帰還したそうです。
資料館の見学をしたら引揚の揚陸地となった浦頭港跡へも行ってみました。ここには「引揚第一歩の地」と刻まれた碑がありましたが、引揚者の中には遺骨となって帰還した人もいれば、船上あるいは揚陸直後に死亡した人も少なくなかったそうです。
説明板のなかには引揚港となった主な港の引揚者の人数が書かれていましたが、これを見ると浦頭港は引揚港としてよく知られている舞鶴港の2倍もの引揚者がここに揚陸しているんですね。
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道の駅からは最短距離で西海市方面へ向かったので、北松浦半島を横断する県道40号を走りましたが、県道40号は海沿いにある道の駅を出発するとすぐに、この道は車で登れるの?って思えるほどの急坂の山道となって、ちょっとビックリしました(笑)
急坂を登り切ってさらに先へ進むと、正面にどこかで見たことがあるようなコンクリートの橋が見えてきました。この橋は松浦鉄道の「福井川橋梁」ですが、戦時中に架けられた竹筋コンクリートの橋で、以前このブログで載せた小国町の廃線となった宮原線に架かる「幸野川橋梁」と構造もデザインもそっくりでした。
今回は二日目には長崎市内の観光をする予定だったので、西海橋の手前までやって来ましたが、朝から再び降り始めた雨はここへ来てもまだ止まなかったので、長崎市へ向かうのは諦めて、昨日西海橋を訪れた時に気になっていた「浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園」へ寄ることにしました。長崎市内の観光は歩いて廻るところばかりなので、天気のいい日にゆっくりと見物をしたいですからね。
標識に従って道路を右折して500mも進むと、左側に「浦頭引揚記念平和公園」の入口が見えてきました。でもここは入口が狭くてちょっと分かり難いので、気を付けないと通り過ぎてしまいそうなところでした。
急坂を登ると広場のようになった駐車場とガラス張りの建物が見えてきますが、ここが佐世保市針尾北町にある「浦頭引揚記念平和公園」です。そしてこの建物は「浦頭引揚記念資料館」です。ここへ到着した時は資料館が開館する30分ほど前だったので、開館時間になるまで周辺を見て廻ります。ちなみにこの資料館の見学は無料です。
ここは敷地はあまり広くありませんが、まず目を引いたのは資料館の裏手に建っている「浦頭引揚記念平和の像」です。この像は高台に建っていましたが、高さが10mはありそうな大きな像でした。
そして平和の像の下部には、苦労の末に帰還して日本本土の土を踏んだ引揚者と、それを待ちわびていた母子の像が建っていました。
ここにはこの様な碑もありました。引揚といえば京都の舞鶴港で息子の帰りを待つ母の姿を歌った、二葉百合子さんの「岸壁の母」が有名ですが、田畑義男さんが歌って昭和21年にヒットした「かえり船」も復員兵の未練を描いた歌なんですよね。
ここにはこの様な案内が書かれた石柱もあったので、資料館の見学を済ませたら揚陸地となった波止場へも行ってみます。
浦頭引揚記念平和公園は高台にあるので、ここからは引揚者の揚陸地となった佐世保湾(浦頭港)を望むことができます。
この時は湾内に一隻の艦船が停泊していました。この艦船は米海軍のミサイル駆逐艦 ハワードのようでした。戦後も軍港として栄えている佐世保では、至る所からこの様な光景が見れるんですよね。
しばらく公園内を見て廻っていたら資料館の開館時間となったので、さっそく館内へ入りました。受付の人に聞いたら館内の展示物はすべて撮影OKとのことでした。
たくさんある展示物の中には、実際の引揚に使用され浦頭港に入港した船舶の写真もありました。戦後の海外からの引揚事業では旧日本海軍の駆逐艦や民間の客船、米軍の艦船などを総動員して、軍人、一般人合わせて600万人以上が帰還したそうです。
資料館の見学をしたら引揚の揚陸地となった浦頭港跡へも行ってみました。ここには「引揚第一歩の地」と刻まれた碑がありましたが、引揚者の中には遺骨となって帰還した人もいれば、船上あるいは揚陸直後に死亡した人も少なくなかったそうです。
説明板のなかには引揚港となった主な港の引揚者の人数が書かれていましたが、これを見ると浦頭港は引揚港としてよく知られている舞鶴港の2倍もの引揚者がここに揚陸しているんですね。
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