「御所ヶ谷 神籠石」の見物をしたら、再び県道58号へと戻りました。
県道58号を筑豊方面へ向かって走っていると、似顔絵が描かれた標識が見えてきました。この似顔絵の人は「吉田 学軒」と標識には書かれていますが、本名は「吉田増蔵」といって、みやこ町勝山出身の漢学者で、年号の「昭和」を考案した偉い人だそうです。
県道58号を先へ進むと国道201号に突き当たってこの様な標識が見えてきます。前記事で載せた「道の駅 香春」へはここを左折しましたが、これから向かう次の目的地はここを右折した先にあります。
国道201号を右折して1kmほど行橋市方面へ進み脇道へ入ると、二つの古墳の名前が書かれた小さな標識が見えてきます。どちらの古墳も大規模な円墳ですが「橘塚古墳」は小学校の敷地内にあって見学できるかどうかも分からないので、もうひとつの「綾塚古墳」へと向かいました。でも綾塚古墳の標識をよく見たら、それぞれの標識には600m、0.7kmと書かれていました。どちらが本当なんでしょうね?(笑)
標識の矢印に従って田んぼや畑が広がる道を数百mも走ると、道路沿いに綾塚古墳駐車場と書かれた看板が見えてきたのでここに車を停めました。画像には駐車場の一部しか写ってませんが、ここは十数台の普通車や、大型バスも停められる広い駐車場でした。
駐車場から道路を挟んで眺めた景色です。左右には民家が建っていて、その間のビニールハウスの後ろにこんもりと盛り上がった部分がありますが、この小山が京都郡(みやこぐん)みやこ町勝山黒田にある「綾塚(あやつか)古墳」です。
さっそく綾塚古墳へと向かいましたが、綾塚古墳はすぐ横に建っている2階建ての民家と同じくらいの高さがあるとても大きな円墳で、説明板には墳丘の直径が40mあると書かれていました。
これが綾塚古墳です。古墳の前には鳥居が建っていたので、古くから信仰の対象となっていた古墳なんでしょうね。
鳥居の扁額には「女帝神社」と刻まれていましたが、どこにも社殿などは無かったので、古墳そのものが御神体なんでしょうか?ちなみに扁額に刻まれている女帝とは、景行天皇の妃の八坂入姫命との説もあって、ここの地名が京都郡(みやこぐん)みやこ町なので、邪馬台国や大和朝廷とも関連がありそうな気がしてロマンを感じますね。
綾塚古墳は古墳の内部へ入ることができるので、これから内部へ入ってみます。
綾塚古墳は横穴式石室の円墳で、入口から石棺の収められた玄室までの通路を羨道(せんどう)といいますが、この古墳は羨道が長くて天井部分や両脇には巨大な石が積まれていて、天井までの高さは3mくらいありそうでした。先日訪れた山口県の「大浦古墳群公園」で見学した6基の円墳とは規模が大違いですね。
内部はこの様になっていましたが、天井部の岩は何十トンもありそうで、その天井石を支える両脇の柱状の岩もかなり巨大で、重機などが無かった時代に人力だけで、よくこれだけの大石を運搬して積み上げることができたものですね。
奥まで進むと鉄格子がありました。この鉄格子の先が石棺の収められている玄室です。
鉄格子越しに内部を覗いてみると一対の石灯籠が立っていて、その奥に石棺がありました。もしかすると女帝神社の御神体はこの石棺或いは、石棺に安置されていた被葬者なのかも知れませんね?
玄室の前から眺めた出口側です。この羨道の長さ、高さを見ただけでもいかに大きな古墳なのかがよく分かりますね。でもこの古墳はかなり早い段階から開口されていて、神社として崇められていたので副葬品などは何も残ってないそうです。
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県道58号を筑豊方面へ向かって走っていると、似顔絵が描かれた標識が見えてきました。この似顔絵の人は「吉田 学軒」と標識には書かれていますが、本名は「吉田増蔵」といって、みやこ町勝山出身の漢学者で、年号の「昭和」を考案した偉い人だそうです。
県道58号を先へ進むと国道201号に突き当たってこの様な標識が見えてきます。前記事で載せた「道の駅 香春」へはここを左折しましたが、これから向かう次の目的地はここを右折した先にあります。
国道201号を右折して1kmほど行橋市方面へ進み脇道へ入ると、二つの古墳の名前が書かれた小さな標識が見えてきます。どちらの古墳も大規模な円墳ですが「橘塚古墳」は小学校の敷地内にあって見学できるかどうかも分からないので、もうひとつの「綾塚古墳」へと向かいました。でも綾塚古墳の標識をよく見たら、それぞれの標識には600m、0.7kmと書かれていました。どちらが本当なんでしょうね?(笑)
標識の矢印に従って田んぼや畑が広がる道を数百mも走ると、道路沿いに綾塚古墳駐車場と書かれた看板が見えてきたのでここに車を停めました。画像には駐車場の一部しか写ってませんが、ここは十数台の普通車や、大型バスも停められる広い駐車場でした。
駐車場から道路を挟んで眺めた景色です。左右には民家が建っていて、その間のビニールハウスの後ろにこんもりと盛り上がった部分がありますが、この小山が京都郡(みやこぐん)みやこ町勝山黒田にある「綾塚(あやつか)古墳」です。
さっそく綾塚古墳へと向かいましたが、綾塚古墳はすぐ横に建っている2階建ての民家と同じくらいの高さがあるとても大きな円墳で、説明板には墳丘の直径が40mあると書かれていました。
これが綾塚古墳です。古墳の前には鳥居が建っていたので、古くから信仰の対象となっていた古墳なんでしょうね。
鳥居の扁額には「女帝神社」と刻まれていましたが、どこにも社殿などは無かったので、古墳そのものが御神体なんでしょうか?ちなみに扁額に刻まれている女帝とは、景行天皇の妃の八坂入姫命との説もあって、ここの地名が京都郡(みやこぐん)みやこ町なので、邪馬台国や大和朝廷とも関連がありそうな気がしてロマンを感じますね。
綾塚古墳は古墳の内部へ入ることができるので、これから内部へ入ってみます。
綾塚古墳は横穴式石室の円墳で、入口から石棺の収められた玄室までの通路を羨道(せんどう)といいますが、この古墳は羨道が長くて天井部分や両脇には巨大な石が積まれていて、天井までの高さは3mくらいありそうでした。先日訪れた山口県の「大浦古墳群公園」で見学した6基の円墳とは規模が大違いですね。
内部はこの様になっていましたが、天井部の岩は何十トンもありそうで、その天井石を支える両脇の柱状の岩もかなり巨大で、重機などが無かった時代に人力だけで、よくこれだけの大石を運搬して積み上げることができたものですね。
奥まで進むと鉄格子がありました。この鉄格子の先が石棺の収められている玄室です。
鉄格子越しに内部を覗いてみると一対の石灯籠が立っていて、その奥に石棺がありました。もしかすると女帝神社の御神体はこの石棺或いは、石棺に安置されていた被葬者なのかも知れませんね?
玄室の前から眺めた出口側です。この羨道の長さ、高さを見ただけでもいかに大きな古墳なのかがよく分かりますね。でもこの古墳はかなり早い段階から開口されていて、神社として崇められていたので副葬品などは何も残ってないそうです。
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