波戸岬を出発したら県道301号(陣跡通り)を来た方向に戻りました。
一旦は道の駅「桃山天下市」まで戻りましたが、道の駅はまだオープン前で開店準備中だったので、すぐ近くにある同じ唐津市鎮西町の「名護屋城跡」へ向かいました。
名護屋城跡には無料駐車場がありますが、この様なところを潜って行くんですよね。駐車場はここを潜ったらすぐにありますが、あまり広くなくて20台?程度しか停められないので、混雑時には少し離れた多目的広場の駐車場を利用することになります。
駐車場に車を停めたら、さっそく名護屋城跡へと向かいました。正面に見えている建物は無料で入館できる名護屋城博物館ですが、ここは開館時間が9時なのでまだオープン前でした。そして名護屋城跡へはこの先を右に曲がります。
名護屋城跡は24時間見学ができて見学料金も無料ですが、入口には歴史遺産維持協力金のお願いと書かれた看板が立てられていました。
名護屋城の見物をする前に協力金を支払いに受付へ行ったら、ここもまだ閉まっていて誰もいなかったので、そのまま奥へ進んで名護屋城跡の見物を先にすることにしました。
名護屋城は豊臣秀吉が大陸進攻(文禄・慶長の役)の足掛かりとするために、全国の諸大名に命じて築城させたお城で、当時は大阪城に次ぐ大規模なお城だったそうです。
ここもりゅう君がいた頃を含めると3回訪れていて、博物館の見学などもしたことがありますが、本丸跡まではまだ一度も登ったことが無いので、今回は本丸跡まで散歩を兼ねて登ってみました。
本丸跡を目指して歩き始めるとすぐに石垣が見えてきます。ここは名護屋城の大手口です。
名護屋城は豊臣秀吉の死によって大陸進攻が中止になったので廃城となり、その後江戸時代になって島原の乱の教訓から城として使えないように徹底的に破壊されたので、大手口の石垣には最も重要な部分の隅部がこの様に破壊されていました。そして本丸跡へ向かう途中で見た石垣にもこの様な破壊の跡がたくさん残っていました。
名護屋城は波戸岬の丘陵を中心に築かれたとても面積の広いお城でしたが、平山城(ひらやまじょう)といわれる平地の中にある丘陵に築かれたお城なので、高さはあまり無くて登り始めると十数分ほどで本丸跡へ辿り着きます。ここは井戸跡などが残る三の丸跡ですが、画像に写っている石垣の上はもう本丸跡です。
本丸跡はグランドのようにとても広くて、中心部には石碑が建っていました。
本丸跡から呼子方面を眺めると「呼子大橋」と、その先には加部島が見えました。あまり高くないとはいっても標高が90mほどあるので、とても景色がよくて呼子の町並みなどが一望できました。
広い本丸跡の海側に面した隅っこにはさらに一段高くなったところがありました。
ここには「名護屋城天守台跡」と刻まれた石碑が立てられていました。
ここには玄界灘が一望できる五層七階の天守閣が建っていたそうです。豊臣秀吉もここから玄界灘の先にある大陸方面を眺めていたんでしょうね?でも今は地面に建物の基礎となる礎石が残るだけです。
駐車場まで戻って名護屋城跡の横を走る国道204号の呼子方面を眺めた景色です。画像の真ん中辺りには樹木に隠れるようにして建物の屋根だけが見えていますが、ここがこれから向かう道の駅「桃山天下市」です。
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名護屋城跡には無料駐車場がありますが、この様なところを潜って行くんですよね。駐車場はここを潜ったらすぐにありますが、あまり広くなくて20台?程度しか停められないので、混雑時には少し離れた多目的広場の駐車場を利用することになります。
駐車場に車を停めたら、さっそく名護屋城跡へと向かいました。正面に見えている建物は無料で入館できる名護屋城博物館ですが、ここは開館時間が9時なのでまだオープン前でした。そして名護屋城跡へはこの先を右に曲がります。
名護屋城跡は24時間見学ができて見学料金も無料ですが、入口には歴史遺産維持協力金のお願いと書かれた看板が立てられていました。
名護屋城の見物をする前に協力金を支払いに受付へ行ったら、ここもまだ閉まっていて誰もいなかったので、そのまま奥へ進んで名護屋城跡の見物を先にすることにしました。
名護屋城は豊臣秀吉が大陸進攻(文禄・慶長の役)の足掛かりとするために、全国の諸大名に命じて築城させたお城で、当時は大阪城に次ぐ大規模なお城だったそうです。
ここもりゅう君がいた頃を含めると3回訪れていて、博物館の見学などもしたことがありますが、本丸跡まではまだ一度も登ったことが無いので、今回は本丸跡まで散歩を兼ねて登ってみました。
本丸跡を目指して歩き始めるとすぐに石垣が見えてきます。ここは名護屋城の大手口です。
名護屋城は豊臣秀吉の死によって大陸進攻が中止になったので廃城となり、その後江戸時代になって島原の乱の教訓から城として使えないように徹底的に破壊されたので、大手口の石垣には最も重要な部分の隅部がこの様に破壊されていました。そして本丸跡へ向かう途中で見た石垣にもこの様な破壊の跡がたくさん残っていました。
名護屋城は波戸岬の丘陵を中心に築かれたとても面積の広いお城でしたが、平山城(ひらやまじょう)といわれる平地の中にある丘陵に築かれたお城なので、高さはあまり無くて登り始めると十数分ほどで本丸跡へ辿り着きます。ここは井戸跡などが残る三の丸跡ですが、画像に写っている石垣の上はもう本丸跡です。
本丸跡はグランドのようにとても広くて、中心部には石碑が建っていました。
本丸跡から呼子方面を眺めると「呼子大橋」と、その先には加部島が見えました。あまり高くないとはいっても標高が90mほどあるので、とても景色がよくて呼子の町並みなどが一望できました。
広い本丸跡の海側に面した隅っこにはさらに一段高くなったところがありました。
ここには「名護屋城天守台跡」と刻まれた石碑が立てられていました。
ここには玄界灘が一望できる五層七階の天守閣が建っていたそうです。豊臣秀吉もここから玄界灘の先にある大陸方面を眺めていたんでしょうね?でも今は地面に建物の基礎となる礎石が残るだけです。
駐車場まで戻って名護屋城跡の横を走る国道204号の呼子方面を眺めた景色です。画像の真ん中辺りには樹木に隠れるようにして建物の屋根だけが見えていますが、ここがこれから向かう道の駅「桃山天下市」です。
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