元の間海峡 段々展望所を出発したら、鶴御崎半島をさらに先端部へと向かいます。
段々展望所から1kmほど山道を走ると道路は二手に分かれます。右の道を進めばさらに山を登って、九州本土最東端の岬に建つ 「鶴御埼灯台」 へと行けますが、先ずは左の道を下って海岸へと出ます。
これから向かうのは画像に写っている集落ですが、ここは 「下梶寄(しもかじよせ)」 といって、九州本土では最東端にある集落です。そして鶴御崎半島の海岸部を走る道路としてはここが終点になってこの先には道がありません。
ここには海水浴場、キャンプ場などがあって、私も若い頃に何度かキャンプに訪れたことがありますが、周囲には集落のわずかな民家があるだけで他には何も無くて、目の前の海は豊後水道からそのまま太平洋へと続いている、抜群に海がきれいで自然豊かなところです。
この日は残念ながら空気が少し霞んでいましたが沖を眺めると、岩礁の上に建つ2つの灯台が見えました。手前に見えるのはここから4kmほど沖合の岩礁の上に建つ 「先ノ瀬灯台」 で、先ノ瀬灯台からさらに10kmほど沖の豊後水道のど真ん中にある岩礁の上に建つのが 「水の子島灯台」 です。でも 「水の子島灯台」 は霞んでぼんやりと見えるだけでした。
水の子島灯台は明治37年に初点灯した古い灯台ですが、灯台の完成に合わせて職員の退息所(休憩用の宿舎)が下梶寄地区に造られたそうです。右の白い建物が宿舎で、奥に見える白い建物は倉庫として利用されていたそうです。そして左側には一番古そうに見える建物がありますが、この建物は地区の集会所として昭和になって造られたもので、水の子島灯台とは全く無関係な建物だそうです。
退息所(宿舎)として利用されていた建物は、水の子島灯台が昭和61年の完全自動化によって、無人化されたことに伴って、この宿舎も役目を終えましたが、「水の子島海事資料館」 として、当時の姿のままで保存されて一般公開されています。
入館料の200円を払ったらさっそく見学です。ここには常駐の管理人さんがいて、建物内の展示物などを詳しく説明してくれました。
展示物の中には昔の漁業の様子が描かれた古い絵馬もありました。
そして絵馬の下には説明文もありましたが、昭和の初期頃までは鶴御崎半島の奥まった入江にまで、大きなマグロが千匹以上も押し寄せていたそうです。今では考えられないほど海が豊かだったんですね。ここよりもっと陸地に近いところの入江には、現在でもマグロの名前がついた 「鮪蒲(しびうら)」 という地名が残っていますからね。
葺き替えられた宿舎の瓦も展示されていましたが、瓦には当時の逓信省の郵便マークが描かれていました。日本の灯台は戦後には海上保安庁の管轄になりましたが、それまでは日本郵便などの前身となる逓信省の管轄だったそうです。
当時の灯台守(吏員)が実際に寝泊まりをしていた部屋です。6畳の狭い部屋で灯台職員は一週間交代で、水の子島灯台へと船で渡っていたそうですが、灯台が完成してしばらくは地元の漁師が漕ぐ伝馬船(手漕ぎの小船)で14km離れた灯台まで命がけで渡っていたそうです。
「水の子島海事資料館」 の見学をしたら、次は当時倉庫として使われていて、今は 「渡り鳥館」 となっている建物へ行きます。
ここには62種、550羽の渡り鳥のはく製が展示されていますが、これらのはく製は当時灯台勤務をしていた川原さんという人が、荒天などにより灯台に激突して死んだ渡り鳥を回収して、一人で22年間かけてはく製にした貴重なものです。
ここには説明文もありましたが、渡り鳥は夜間に霧などで視界が悪い時には、光を目指して集まって来る習性があるそうですが、月明かりのある夜などには全く渡り鳥を見ないそうです。そして灯台に衝突する渡り鳥はごく一部で、大部分の渡り鳥は天候が回復か明るくなると飛び立って行くそうです。
ここは入館料がわずか200円ですが、見応え充分で管理人のおじさんがとても親切に説明をしてくれます。でもここへは鶴御崎半島の海岸沿いのクネクネ道を行き止まりまで走り、戻りも同じ道を長い距離走ることになるのでアクセスがあまりよくなくて、訪れる人はとても少ないそうです。この日も私が二人目の入館者だったそうです。
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段々展望所から1kmほど山道を走ると道路は二手に分かれます。右の道を進めばさらに山を登って、九州本土最東端の岬に建つ 「鶴御埼灯台」 へと行けますが、先ずは左の道を下って海岸へと出ます。
これから向かうのは画像に写っている集落ですが、ここは 「下梶寄(しもかじよせ)」 といって、九州本土では最東端にある集落です。そして鶴御崎半島の海岸部を走る道路としてはここが終点になってこの先には道がありません。
ここには海水浴場、キャンプ場などがあって、私も若い頃に何度かキャンプに訪れたことがありますが、周囲には集落のわずかな民家があるだけで他には何も無くて、目の前の海は豊後水道からそのまま太平洋へと続いている、抜群に海がきれいで自然豊かなところです。
この日は残念ながら空気が少し霞んでいましたが沖を眺めると、岩礁の上に建つ2つの灯台が見えました。手前に見えるのはここから4kmほど沖合の岩礁の上に建つ 「先ノ瀬灯台」 で、先ノ瀬灯台からさらに10kmほど沖の豊後水道のど真ん中にある岩礁の上に建つのが 「水の子島灯台」 です。でも 「水の子島灯台」 は霞んでぼんやりと見えるだけでした。
水の子島灯台は明治37年に初点灯した古い灯台ですが、灯台の完成に合わせて職員の退息所(休憩用の宿舎)が下梶寄地区に造られたそうです。右の白い建物が宿舎で、奥に見える白い建物は倉庫として利用されていたそうです。そして左側には一番古そうに見える建物がありますが、この建物は地区の集会所として昭和になって造られたもので、水の子島灯台とは全く無関係な建物だそうです。
退息所(宿舎)として利用されていた建物は、水の子島灯台が昭和61年の完全自動化によって、無人化されたことに伴って、この宿舎も役目を終えましたが、「水の子島海事資料館」 として、当時の姿のままで保存されて一般公開されています。
入館料の200円を払ったらさっそく見学です。ここには常駐の管理人さんがいて、建物内の展示物などを詳しく説明してくれました。
展示物の中には昔の漁業の様子が描かれた古い絵馬もありました。
そして絵馬の下には説明文もありましたが、昭和の初期頃までは鶴御崎半島の奥まった入江にまで、大きなマグロが千匹以上も押し寄せていたそうです。今では考えられないほど海が豊かだったんですね。ここよりもっと陸地に近いところの入江には、現在でもマグロの名前がついた 「鮪蒲(しびうら)」 という地名が残っていますからね。
葺き替えられた宿舎の瓦も展示されていましたが、瓦には当時の逓信省の郵便マークが描かれていました。日本の灯台は戦後には海上保安庁の管轄になりましたが、それまでは日本郵便などの前身となる逓信省の管轄だったそうです。
当時の灯台守(吏員)が実際に寝泊まりをしていた部屋です。6畳の狭い部屋で灯台職員は一週間交代で、水の子島灯台へと船で渡っていたそうですが、灯台が完成してしばらくは地元の漁師が漕ぐ伝馬船(手漕ぎの小船)で14km離れた灯台まで命がけで渡っていたそうです。
「水の子島海事資料館」 の見学をしたら、次は当時倉庫として使われていて、今は 「渡り鳥館」 となっている建物へ行きます。
ここには62種、550羽の渡り鳥のはく製が展示されていますが、これらのはく製は当時灯台勤務をしていた川原さんという人が、荒天などにより灯台に激突して死んだ渡り鳥を回収して、一人で22年間かけてはく製にした貴重なものです。
ここには説明文もありましたが、渡り鳥は夜間に霧などで視界が悪い時には、光を目指して集まって来る習性があるそうですが、月明かりのある夜などには全く渡り鳥を見ないそうです。そして灯台に衝突する渡り鳥はごく一部で、大部分の渡り鳥は天候が回復か明るくなると飛び立って行くそうです。
ここは入館料がわずか200円ですが、見応え充分で管理人のおじさんがとても親切に説明をしてくれます。でもここへは鶴御崎半島の海岸沿いのクネクネ道を行き止まりまで走り、戻りも同じ道を長い距離走ることになるのでアクセスがあまりよくなくて、訪れる人はとても少ないそうです。この日も私が二人目の入館者だったそうです。
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