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平成25年2月14日、りゅうママの父が83歳の天寿を全うしました、

りゅうママの父は昭和4年に生まれ、昭和19年15歳で海軍乙種飛行予科練習生(予科練)第23期として鹿児島海軍航空隊に入隊しましたが、当時はすでに訓練をするための飛行機も無くて、モーターボートに爆弾を積んで敵の船に体当たりをする 『震洋』 の特攻隊員としての操縦訓練をしていたそうで、終戦は長崎県の大村海軍航空隊で迎えたそうです、

resize108171.jpg葬儀も終わって義父の遺品の整理をしていると、たくさんの写真などが出てきました、この写真は昭和20年3月の日付が書いてあるので、おそらく第二学年終了後まもなく空襲の被害等で予科練教育が中止になって各基地へ配属になる前に撮った写真と思われます、



resize108164.jpgこの写真はおそらく予科練への入隊直前に写真館で撮影したものと思われます、軍歌・若鷲の歌の中で ”若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・” と歌われている七つボタンの制服を着た満15歳の若者だった頃の義父です、



resize108166.jpgこれは入隊後の写真ですが、全員が国に命を捧げる覚悟で狭き門を突破して入隊してきた15~16歳の若者達です、この当時はすでに太平洋戦争の末期で飛行訓練を行う飛行機も燃料も無くて、特攻艇・震洋の操縦訓練や潜水具を付けて爆弾を抱えたまま敵の船へ体当たりをする訓練などをしていたそうです、



resize108182.jpg遺品の中にはたくさんの名簿などもありました、海軍乙種飛行予科練習生23期は入隊した鹿児島海軍航空隊が錦江湾(鹿児島湾)に面していたからと思いますが? 『錦江23期会』 という会を結成して、昭和46年からほぼ2年毎に全国大会を行っていたそうですが、入隊60周年に当たる第19回大会を契機に高齢などを理由に全国大会に幕を引いたそうです、



9b3f3045.jpegでも錦江23期会は義父の出身地の熊本県などでも支部大会を行っており、2年毎に行われていた全国大会を含めて義父は必ず出席していたようです、これは長崎県の佐世保で行われた同期会で海上自衛隊の資料館を見学した時の写真です、数十年ぶりに当時と同じ七つボタンの制服を着ています、



resize108299.jpgこの写真にはその時の様子を記した手紙も添えられてあって、文面からは15歳の予科練入隊時の少年時代に戻ったように嬉しかった事が書かれていました、



79ecc237.jpegりゅうママによると義父は家庭では厳しい父親だったそうですが、お酒が大好きで元気な頃には同期会に出席しては戦友と酒を酌み交わして昔話に花を咲かせていた事でしょうね、私もよく一緒にお酒を飲んでは予科練時代の話などを聞いたものです、



resize108186.jpg実家には表彰状も飾ってあったので、義父と一緒に棺に納めました、義父は昭和20年に満15歳で予科練に入隊したので年齢的には最年少の軍隊経験者だったと思います、戦後70年近く経ち当時を知る人達はほとんど亡くなっていますが、戦争体験を聞く事が出来た事は貴重な経験でした、



37d1fe70.jpeg大分での葬儀の後、熊本市内で本葬も済ませ、義父の故郷にある先祖代々のお墓に親族一同でお参りをしました、りゅうママ一人しか子供のいなかった義父はこのお墓に入る事になります、大分からでは度々のお墓参りはちょっと厳しいですが、どうか安らかにお休み下さい。



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Comment
1
心からのご冥福を申し上げます。
この時代の日本人は、本当に苦労しましたねぇ〜。
今の若い人たちには想像も出来ないような…(涙)
そういう私もこの歳で、何も分からないことばかりです。

長崎の家からキノコ雲を見た、等と原爆のことは少し、
話しましたが、よく考えたら、何も聞かされていない。

私たちの時代は、オールウェイズという映画そのまま…のような
感じですが、ここまでになったのは、先代日本人のおかげです。
義父さん、安らかにお眠りください。
…合掌

RE.1
こんにちは、びびさん
この時代の人達は私らには想像も出来ない苦労をしてますよね、義父も酒を飲んでは”俺は苦労をしてきたんだ”ってよく言ってましたよ(笑)

元気なうちにもっと一緒に酒を飲んで話をしておけばよかったと思います、親孝行したい時には・・・の心境ですね、

義父は終戦を長崎県大村で迎えたので、もしかしたら義父も原爆のキノコ雲を見たかもしれませんね、

義父の故郷(お墓も)は熊本県下益城郡ですから大分からでは往復するのに一日がかりですが、しばらくは往復の日々が続きそうです、

2
無題
一昨日海星館の水仙を見に行きました。
そのことをお伝えしようとしてこちらに訪問し、お義父さまのご不幸を知りました
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
たった15才で予科練に入隊とは、大変なご苦労でしたね。

私の父も軍隊の経験があり、子供の頃から軍服の写真を見てきました。
戦友会にも参加していましたが、さすがに96才にもなるとほとんどの方は亡くなり、最近では年賀状も途絶えてしまったようです。
昨年りゅうままさんにお会いした時も、お母様が入院されて一人暮らしのお父様のことを心配されていました。
いつかは見送らなければならない親のこととわかっていても、淋しさは計り知れません。
どうぞお大事になさって下さい。

RE.2
おはようございます、トリテンさん
お気遣いありがとうございます、

大分と熊本の行き来などでバタバタしてて返信が遅くなりました、

海星館のスイセン見頃だった事でしょうね?

トリテンさんのお父様は義父よりも13歳年上ですから実戦で辛い体験をしたのでしょうね、義父の場合は実戦は経験してなかったようですが、終戦があと数ヶ月も遅れていたら特攻隊として出撃してただろうとよく話してました、

戦後70年平和な時代が続き、当時を知る人たちは次々と亡くなっていますが、義父からも当時の話は聞いてましたが遺品の整理をしててはじめて見る写真ばかりだったので、せめて記録としてでも残そうと思ってブログに掲載しました、

いつか必ずはこの日が来るとは分かっていても、やはり悲しいものですね。

3
無題
こんにちは。

初めまして、他の事で検索をしていて、偶然
貴方のプログを見せて頂きました。

私の亡父も、震洋特攻隊の一員でした、何処で
訓練をしていたのか等、詳しい事は分かりませんが、
三回襲撃して天候不良で引き返して終戦になったと
聞きました。

戦争では生き残りましたが、肺癌の為に66歳で
他界しました。

平成3年12月3日の午後7時前でした。

亡父の兄もレイテ湾の戦いで一式陸攻の機長として
戦士したそうです。

戦地の部隊長から手紙と石ころ一つが
届いたそうで、実家にはその手紙と石ころが
ありました。

世の中は又、不安な状況ですが、二度と愚かな事は
繰り返して欲しくないです。

ご冥福をお祈りします。

RE.3
はじめまして、
ご訪問ありがとうございます、

お父様の亡くなられた年齢からすると義父よりも4歳年上かと思われますが、義父の場合は同期会の会報等を読むと予科練卒業後は各基地へ配属になったものの本土決戦要員?として実戦には出ていないようです、それでも空襲や事故等で多くの同期を亡くしてるようです、

義父も肺がんで83歳で他界しました、
当時を知る人達も次々と亡くなっていき、あと何年もしないうちに先の大戦の経験者は居なくなってしまうでしょうが、せめて記録としてだけでも残して過去の過ちを二度と繰り返さないようにしてもらいたいものですね。

ありがとうございました。

4
亡き父親の人生のひとコマに触れさせて頂いて感謝申し上げます。
子供のタブレットを借りて投稿させて頂きます。
「予科練」検索中に
お写真からこちらのブログにお邪魔させて頂きました
ネット初心者です。
20年前に身罷りました父が昭和三年生まれで予科練に居たと聞いていましたが生前戦中の話は口にしないまま亡くなりました。
また、当時の高度成長街中の雰囲気としてLOVE&PEACE風潮で
周りの大人達にわたくしも聞きにくくわたくしの寿命も近くなりww
ふと教科書に載っていない
亡き父親の青年時代の事を知りたいと思い検索し
義父様と生まれが一年しか違わないので つい親しみを感じて・・
このような事は 他人様に簡単に伺えるものではないので
ブログの記事にして頂いたお陰で静かに鎮魂を込めながら心静かに
拝見させて頂く事が出来
父の青春時代のひとコマを知る事が出来た様に思います。
どうかご霊前にも感謝のご報告をお伝え頂けませんでしょうか。
本当にありがとうございました。

畏し

RE.4
こんにちは、邂逅さん
はじめまして、

亡きお父上様の人生のひとコマに触れる事が出来て何よりです、

当時の人たちは語る事も出来ない我々が想像すら出来ないような苦労をしていますからね、義父もお酒が大好きな好々爺って感じのおじいちゃんで当時の事はほとんど語る事がありませんでしたが、年に一度の予科練の同期会に出席するのをとても楽しみにしていました、当時の生死を共にした仲間は我々の想像もできないような強い絆で結ばれていたんでしょうね、
義父が亡くなり遺品の整理をしていてこんな青春時代を過ごしていたんだと驚く事ばかりでした、
戦後70年になり当時を知る人は少なくなっていますが我々が後世に語り継いでいくべきでしょうね、
ご訪問ありがとうございました。


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