佐田京石を出発したら安心院町の街中へと向かいました。
安心院町の中心部へと入ったら、安心院盆地の中を流れる深見川の河川敷に車を停めました。安心院町はスッポンの町といわれて、スッポンの養殖が盛んなところなので橋の欄干にもスッポンのモニュメントがありました。
河川敷に車を停めたら 『下市磨崖仏、下市百穴』 へと向かいます。正面の小さな鳥居の横に下市磨崖仏がありますが、左側のフェンスの中はスッポンの養殖を行っている安心院すっぽんセンターです。そしてりゅう君と一緒に何度も泊まったことのある 『やまさ旅館』 もこのすぐ近くにあります。
鳥居の前にあった説明板です。ここには 『下市磨崖仏』 といって13~14世紀に造られた阿弥陀如来座像など11体の磨崖仏が神社の横にある小山の北東壁と南東壁にあります。
最初に見物したのは南東側の壁面ですが、こちらは風化が激しくて4体ある磨崖仏はほとんど判別がつかないような状態でした。画像に写っている磨崖仏はおそらく阿弥陀如来坐像だと思いますが、頭部から下はほとんど崩落していて、頭部も今にも崩れ落ちそうでした。
南東壁に比べて北東壁の磨崖仏は比較的保存状態が良くて、この様にきれいな姿で残っていました。南東壁に対して北東壁は大きな樹木なども茂っていて太陽の光があまり当たらないので、劣化の原因となる紫外線や雨の影響をあまり受けないんでしょうか?
下市磨崖仏の見物をしたら、磨崖仏のある南東壁に続く壁面に横穴古墳が掘られた 『下市百穴』 へ行きました。これは下市百穴の説明板ですが、実際に残っている横穴古墳は100基も無くて32基なんですね。昔はたくさんの横穴古墳があったそうですが、道路工事等によってほとんどの横穴古墳は破壊されたそうです。残念なことですね。
下市百穴はこんなところにあります。狭い見学通路はがけ崩れのために途中で通行止めになっていますが、下市磨崖仏の南東壁へと続いています。そして右側に写っている建物は安心院すっぽんセンターです。ビニールハウスのような建物の中に養殖池があって、池の中にはたくさんのスッポンがいました。
見学通路と壁面に掘られた横穴古墳の距離が近いので全体の撮影はできませんが、この様な横穴古墳がずらりと並んでいました。大分市内にある横穴古墳の 『 滝尾百穴 』 と構造等がよく似ていますね。
そして一部の横穴古墳には上部に文字が刻まれていました。よく見たら『五班?』 と刻まれているようにも見えますが、下市百穴が造られた古墳時代には文字が普及していなかったと思われるので、もしかしたら地元の人たちが別の目的でこの横穴を利用していたのかもしれませんね?
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河川敷に車を停めたら 『下市磨崖仏、下市百穴』 へと向かいます。正面の小さな鳥居の横に下市磨崖仏がありますが、左側のフェンスの中はスッポンの養殖を行っている安心院すっぽんセンターです。そしてりゅう君と一緒に何度も泊まったことのある 『やまさ旅館』 もこのすぐ近くにあります。
鳥居の前にあった説明板です。ここには 『下市磨崖仏』 といって13~14世紀に造られた阿弥陀如来座像など11体の磨崖仏が神社の横にある小山の北東壁と南東壁にあります。
最初に見物したのは南東側の壁面ですが、こちらは風化が激しくて4体ある磨崖仏はほとんど判別がつかないような状態でした。画像に写っている磨崖仏はおそらく阿弥陀如来坐像だと思いますが、頭部から下はほとんど崩落していて、頭部も今にも崩れ落ちそうでした。
南東壁に比べて北東壁の磨崖仏は比較的保存状態が良くて、この様にきれいな姿で残っていました。南東壁に対して北東壁は大きな樹木なども茂っていて太陽の光があまり当たらないので、劣化の原因となる紫外線や雨の影響をあまり受けないんでしょうか?
下市磨崖仏の見物をしたら、磨崖仏のある南東壁に続く壁面に横穴古墳が掘られた 『下市百穴』 へ行きました。これは下市百穴の説明板ですが、実際に残っている横穴古墳は100基も無くて32基なんですね。昔はたくさんの横穴古墳があったそうですが、道路工事等によってほとんどの横穴古墳は破壊されたそうです。残念なことですね。
下市百穴はこんなところにあります。狭い見学通路はがけ崩れのために途中で通行止めになっていますが、下市磨崖仏の南東壁へと続いています。そして右側に写っている建物は安心院すっぽんセンターです。ビニールハウスのような建物の中に養殖池があって、池の中にはたくさんのスッポンがいました。
見学通路と壁面に掘られた横穴古墳の距離が近いので全体の撮影はできませんが、この様な横穴古墳がずらりと並んでいました。大分市内にある横穴古墳の 『 滝尾百穴 』 と構造等がよく似ていますね。
そして一部の横穴古墳には上部に文字が刻まれていました。よく見たら『五班?』 と刻まれているようにも見えますが、下市百穴が造られた古墳時代には文字が普及していなかったと思われるので、もしかしたら地元の人たちが別の目的でこの横穴を利用していたのかもしれませんね?
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