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今回は自宅のすぐ近くにある 『 大洲総合運動公園 』 へ出かけました。
 

大洲総合運動公園は旧大分空港の跡地に総合体育館、野球場などを建設した大分県営の都市公園(運動公園)です。空港の跡地なので敷地が帯状になっていて、案内図を見ても空港(滑走路)そのものの形をしています。
 
 
 

大洲総合運動公園の横には水路(裏川)が流れていて、その向かい側(右側)にあるのは新産都の進出企業の製鉄所です。裏川はここから数百mほど上流へ行くと、りゅう君といつもお散歩をしていた大分市平和市民公園の中を流れています。




駐車場に車を停めたら公園内を散策です。ここは敷地がとっても広くて、管理が行き届いているので、りゅう君ともよくお散歩に訪れたところですが、公園の中央付近の芝生広場には二つの石碑が建っています。そして石碑の後ろには大分県の県花、県木の 『 豊後梅 』 が花を咲かせていました。




右側の大きな石碑には 『 大分空港跡地 』 と刻まれています。石碑の裏面には大分空港の沿革などが書かれていましたが、ここは太平洋戦争中には大分海軍航空隊の基地がありました。




そしてもうひとつの石碑には 『 神風特別攻撃隊発進之地 』 と刻まれています。戦争末期にはここに第五航空艦隊司令部があって、司令長官の宇垣纒(うがきまとめ)中将が、終戦の玉音放送があった日の夕刻に701飛行隊の艦上爆撃機 彗星11機による最後の特攻を行いました。終戦後の特攻については、宇垣中将による若者を道ずれとした私的特攻だとか、当初5機で特攻をする予定が隊員らの懇願により11機まで増えたとか色々と伝えられていますが、真実はどうだったんでしょうね?
 
 
 

裏面にはこの時の特攻によって亡くなった隊員の名前が記されていますが、宇垣中将以外は十代後半から二十代前半の若者ばかりでした。宇垣中将は隊長機の後席にもう一人の隊員と一緒に搭乗したそうですが、隊長機を操縦していたのは大分県津久見市出身の中津留大尉でした。




裏川沿いを上流へ歩いて行くと、慰霊碑があります。ここは旧大分空港の滑走路の東端にあたるところで、昭和39年に鹿児島発の富士航空機が、着陸直前に裏川の土手に激突して墜落した場所です。この事故では乗員、乗客42名のうち半数の20名が無くなりました。もう半世紀以上も前の事故ですから、当時のことを記憶している人もほとんどいないでしょうね?


 
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