あまべの郷 関あじ関さば館へ寄れなかったのは残念でしたが、まだ時間もたっぷりあるので国道217号をさらに南下しました。
しばらくすると大分市から臼杵市へ入って、この様な標識が見えてきました。国道217号はこの少し手前までは海沿いを走る道で、この先は山越えのトンネルを抜ける道となって臼杵市街地へと続いていますが、ここからは標識には書かれていないUターンするような道へ左折して、海沿いを来た方向に戻るように進みます。
海沿いの道を1kmほど北へ向かって走ると漁港が見えてきたのでここに車を停めました。ここは臼杵市佐志生(さしう)の尾本漁港です。港の向こうにはこんもりと樹木が繁っているのが見えますが、ここは江戸時代初期にウィリアム・アダムス(三浦按針)などが乗船したオランダ船リーフデ号が漂着した黒島です。
ここは初めて訪れるところですが、ちょっと前に情報番組で鯨の墓があるというのを見たので、いつか訪れてみたいと思っていたところです。番組では港の突端に鯨の墓があると言っていたので、広い漁港内をかなりウロウロしましたが、結局見つからず半分諦めて車に戻ったら、昔の防波堤の辺りに大小の石碑らしきものがあったのでダメ元で見に行ってみました。
大きな石碑は文字が刻まれていないようでしたが、その横にある小さな石碑には「大鯨善魚供養塔」と刻まれていました。鯨の供養塔のすぐ横には民家もありましたが、昔の防波堤も残っていたので、かつてはこの辺りから沖に向かって砂浜が広がっていたんでしょうね。
番組では臼杵市内に5か所の鯨の墓(供養塔)があると言っていたので、この近くにある残りの3ヶ所の鯨の墓にも行ってみることにしました。尾本港からのルートは省略しますが、しばらく南へ進むとこの様な標識が見えてきました。これから向かうのは臼杵市中津浦の中津浦漁港です。
標識の位置から中津浦漁港を目指して2kmほど走ると学校が見えてきました。ここは大分県立海洋科学高校です。道はここで二手に分かれていて、そのまま直進すれば臼杵市街地へ行けますが、ここを左折して200mほど進むと海沿いの道となって中津浦漁港へと続いています。
海へ出たら海岸沿いの道を北へ向かって戻るように1㎞ほど走ったら中津浦漁港に到着しました。この辺り一帯は山が海に迫っているような地形なので平地が全く無くて、この地区にある天満社もこの様な斜面の上に建っていました。
漁港の駐車場に車を停めたらさっそく天満社へと向かいましたが、拝殿へと続く急な階段の途中には手摺の途切れたところがあって、左側へも行けるようになっていました。
ここを左に行ってみると奥には小さなお社がありました。このお社は恵比寿神社というようでした。
お社の手前には「鯨神社」と刻まれた供養塔の様な石柱がありました。ここがこの日2番目に訪れる臼杵市の沿岸にある鯨の墓(供養塔)です。恵比寿神社には鯨も祀っているんでしょうね? 鯨の墓は大分県内に何ヵ所かありますが、昔は鯨が一頭獲れれば村全体が潤うといわれていたので、村人が感謝を込めて神社を建立したんでしょうね。
そしてその隣には「亀之墓」と刻まれた供養塔もありました。どちらの供養塔についても伝承などは残ってないので詳細はわかりませんが、昔はこの辺りの海岸にもたくさんの海カメが産卵に来ていたんでしょうね?
天満社の参道からちょっと逸れて鯨の供養塔などを見ましたが、再び参道に戻ってさらに上にある天満社の拝殿へと向かいました。
拝殿へと続く急な石段の途中の壁面には「地震津波避難場所」と書かれていました。この辺りは南海トラフ地震が発生したら6mもの津波が押し寄せてくるんですね。
ここが階段を登り切ったところにある天満社の拝殿とその奥にある本殿です。山の斜面に建てられた神社なので、拝殿の前には平地部分などはほとんどありませんが・・・
狭い境内の中にはこの様なモニュメントがありました。そしてその向こうには中津浦漁港と、さらに沖には臼杵市にあるのに津久見島と名付けられた、おにぎりのような形をした島も見えました。
このモニュメントの台座部分には「サンタ・アナ号 漂着・碇泊の碑」と刻まれていました。
ここにはサンタ・アナ後についての説明が刻まれた石碑もありました。黒島にオランダ商船のリーフデ号が漂着したのは1600年ですが、スペイン船のサンタ・アナ号はそのわずか9年後の1609年に黒島のすぐ近くのこの地に漂着しているんですね。
この時は3隻のスペイン船が遭難したそうですが、千葉県御宿へ辿り着いた旗艦のサンフランシスコ号の乗員は徳川家康などから歓待を受けて、リーフデ号に乗っていたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、徳川家康から帰還船の建造を命じられたそうです。
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しばらくすると大分市から臼杵市へ入って、この様な標識が見えてきました。国道217号はこの少し手前までは海沿いを走る道で、この先は山越えのトンネルを抜ける道となって臼杵市街地へと続いていますが、ここからは標識には書かれていないUターンするような道へ左折して、海沿いを来た方向に戻るように進みます。
海沿いの道を1kmほど北へ向かって走ると漁港が見えてきたのでここに車を停めました。ここは臼杵市佐志生(さしう)の尾本漁港です。港の向こうにはこんもりと樹木が繁っているのが見えますが、ここは江戸時代初期にウィリアム・アダムス(三浦按針)などが乗船したオランダ船リーフデ号が漂着した黒島です。
ここは初めて訪れるところですが、ちょっと前に情報番組で鯨の墓があるというのを見たので、いつか訪れてみたいと思っていたところです。番組では港の突端に鯨の墓があると言っていたので、広い漁港内をかなりウロウロしましたが、結局見つからず半分諦めて車に戻ったら、昔の防波堤の辺りに大小の石碑らしきものがあったのでダメ元で見に行ってみました。
大きな石碑は文字が刻まれていないようでしたが、その横にある小さな石碑には「大鯨善魚供養塔」と刻まれていました。鯨の供養塔のすぐ横には民家もありましたが、昔の防波堤も残っていたので、かつてはこの辺りから沖に向かって砂浜が広がっていたんでしょうね。
番組では臼杵市内に5か所の鯨の墓(供養塔)があると言っていたので、この近くにある残りの3ヶ所の鯨の墓にも行ってみることにしました。尾本港からのルートは省略しますが、しばらく南へ進むとこの様な標識が見えてきました。これから向かうのは臼杵市中津浦の中津浦漁港です。
標識の位置から中津浦漁港を目指して2kmほど走ると学校が見えてきました。ここは大分県立海洋科学高校です。道はここで二手に分かれていて、そのまま直進すれば臼杵市街地へ行けますが、ここを左折して200mほど進むと海沿いの道となって中津浦漁港へと続いています。
海へ出たら海岸沿いの道を北へ向かって戻るように1㎞ほど走ったら中津浦漁港に到着しました。この辺り一帯は山が海に迫っているような地形なので平地が全く無くて、この地区にある天満社もこの様な斜面の上に建っていました。
漁港の駐車場に車を停めたらさっそく天満社へと向かいましたが、拝殿へと続く急な階段の途中には手摺の途切れたところがあって、左側へも行けるようになっていました。
ここを左に行ってみると奥には小さなお社がありました。このお社は恵比寿神社というようでした。
お社の手前には「鯨神社」と刻まれた供養塔の様な石柱がありました。ここがこの日2番目に訪れる臼杵市の沿岸にある鯨の墓(供養塔)です。恵比寿神社には鯨も祀っているんでしょうね? 鯨の墓は大分県内に何ヵ所かありますが、昔は鯨が一頭獲れれば村全体が潤うといわれていたので、村人が感謝を込めて神社を建立したんでしょうね。
そしてその隣には「亀之墓」と刻まれた供養塔もありました。どちらの供養塔についても伝承などは残ってないので詳細はわかりませんが、昔はこの辺りの海岸にもたくさんの海カメが産卵に来ていたんでしょうね?
天満社の参道からちょっと逸れて鯨の供養塔などを見ましたが、再び参道に戻ってさらに上にある天満社の拝殿へと向かいました。
拝殿へと続く急な石段の途中の壁面には「地震津波避難場所」と書かれていました。この辺りは南海トラフ地震が発生したら6mもの津波が押し寄せてくるんですね。
ここが階段を登り切ったところにある天満社の拝殿とその奥にある本殿です。山の斜面に建てられた神社なので、拝殿の前には平地部分などはほとんどありませんが・・・
狭い境内の中にはこの様なモニュメントがありました。そしてその向こうには中津浦漁港と、さらに沖には臼杵市にあるのに津久見島と名付けられた、おにぎりのような形をした島も見えました。
このモニュメントの台座部分には「サンタ・アナ号 漂着・碇泊の碑」と刻まれていました。
ここにはサンタ・アナ後についての説明が刻まれた石碑もありました。黒島にオランダ商船のリーフデ号が漂着したのは1600年ですが、スペイン船のサンタ・アナ号はそのわずか9年後の1609年に黒島のすぐ近くのこの地に漂着しているんですね。
この時は3隻のスペイン船が遭難したそうですが、千葉県御宿へ辿り着いた旗艦のサンフランシスコ号の乗員は徳川家康などから歓待を受けて、リーフデ号に乗っていたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、徳川家康から帰還船の建造を命じられたそうです。
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