広瀬神社の参拝と資料館の見学をしたら竹田城下町の散策をしました。
広瀬神社を出発したら、江戸時代の武家屋敷の土塀などが残る「殿町武家屋敷通り」を進みました。
殿町武家屋敷通りは江戸時代には岡藩の武家屋敷があったところで、今では土塀だけが残っているところがほとんどですが、この様に昔ながらの家屋もいくつか残っていて、この家は表札も掛けられていたので今でも人が住んでいるようでした。
武家屋敷の土塀が続く昔ながらの通りへ入ると、すぐに周囲の武家屋敷の景観とは不似合いな「キリシタン洞窟礼拝堂」と刻まれた石柱が見えてきました。
石柱に刻まれた矢印の方向を見ると狭い道が奥へと続いているようで、入口にはキツネの石像があって、キリシタン洞窟礼拝堂と赤松稲荷本殿と書かれた、全く関連性の無い二つの案内板がありました。
狭い道はうっそうと樹木が繁った谷のようなところへと続いていました。道の周囲には人家もあって、あまり寂しい感じがしませんでしたが、江戸時代にはこの辺り一帯は人が足を踏み入れないような辺鄙なところだったんでしょうね?
殿町武家屋敷通りから100mも進むと再びキリシタン洞窟礼拝堂の案内板が見えてきました。
そしてキリシタン洞窟礼拝堂の案内板の道路を挟んだ向かいには、扁額に赤松稲荷神社と書かれた赤い鳥居がありました。
別角度から撮影するとこんな感じで、キリシタン洞窟礼拝堂の入口のすぐ前に稲荷神社があるんですよね。この稲荷神社の創建がいつの頃なのかは分かりませんが、仮に江戸時代かそれ以前だとすれば、この神社も隠れキリシタンと何かの関連があるのかも知れませんね?
案内板から50mも進むと山の斜面に突き当たってキリシタン洞窟礼拝堂が見えてきました。今は周囲の樹木も伐採されてすっきりしていて目の前には人家もありますが、キリシタン禁教令が出ていた江戸時代には人が踏み入ることができないようなところだったんでしょうね?
キリシタン洞窟礼拝堂は赤松谷というところにあって、岩壁を掘って造られた礼拝堂と、その隣にある自然?の洞窟とで構成されています。
こちらがキリシタン洞窟礼拝堂です。岩壁の表面は家のように五角形に削られていて、5つの穴が開けられていますが、中央の穴がいちばん大きくて人の背の高さほどあって、その周囲にある4つの穴は人が通るには狭すぎるので、中央の大きな穴が洞窟への出入口で、その周囲の4つの穴は明かり窓なんでしょうか?
キリシタン洞窟礼拝堂のすぐ横にある洞窟です。ここはかなり広くて禁教時代には宣教師が隠れ住んで布教を続けていたと伝えられています。
ここにはキリシタン洞窟礼拝堂の案内板もありました。
洞窟内を格子の隙間から撮影してみると、正面には漆喰を塗り固めて祭壇のように加工された部分がありました。この中央部に十字架やマリア像などが置かれていたんでしょうね?
洞窟の底部はこんな感じで、内部は数人も入れないような狭さに見えましたが、説明板によると幅3m、奥行き3m、高さ3.5mと書かれていたので6畳近い広さがあるようですね。
隠れキリシタンの礼拝堂といえば、陸の孤島の様な山奥の発見されにくい場所などにありますが、ここでは稲荷神社や武家屋敷のすぐ近くに礼拝堂を作ることで、灯台下暗しじゃないですが、逆に発見されずに弾圧を逃れることができたのかもしれませんね?
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殿町武家屋敷通りは江戸時代には岡藩の武家屋敷があったところで、今では土塀だけが残っているところがほとんどですが、この様に昔ながらの家屋もいくつか残っていて、この家は表札も掛けられていたので今でも人が住んでいるようでした。
武家屋敷の土塀が続く昔ながらの通りへ入ると、すぐに周囲の武家屋敷の景観とは不似合いな「キリシタン洞窟礼拝堂」と刻まれた石柱が見えてきました。
石柱に刻まれた矢印の方向を見ると狭い道が奥へと続いているようで、入口にはキツネの石像があって、キリシタン洞窟礼拝堂と赤松稲荷本殿と書かれた、全く関連性の無い二つの案内板がありました。
狭い道はうっそうと樹木が繁った谷のようなところへと続いていました。道の周囲には人家もあって、あまり寂しい感じがしませんでしたが、江戸時代にはこの辺り一帯は人が足を踏み入れないような辺鄙なところだったんでしょうね?
殿町武家屋敷通りから100mも進むと再びキリシタン洞窟礼拝堂の案内板が見えてきました。
そしてキリシタン洞窟礼拝堂の案内板の道路を挟んだ向かいには、扁額に赤松稲荷神社と書かれた赤い鳥居がありました。
別角度から撮影するとこんな感じで、キリシタン洞窟礼拝堂の入口のすぐ前に稲荷神社があるんですよね。この稲荷神社の創建がいつの頃なのかは分かりませんが、仮に江戸時代かそれ以前だとすれば、この神社も隠れキリシタンと何かの関連があるのかも知れませんね?
案内板から50mも進むと山の斜面に突き当たってキリシタン洞窟礼拝堂が見えてきました。今は周囲の樹木も伐採されてすっきりしていて目の前には人家もありますが、キリシタン禁教令が出ていた江戸時代には人が踏み入ることができないようなところだったんでしょうね?
キリシタン洞窟礼拝堂は赤松谷というところにあって、岩壁を掘って造られた礼拝堂と、その隣にある自然?の洞窟とで構成されています。
こちらがキリシタン洞窟礼拝堂です。岩壁の表面は家のように五角形に削られていて、5つの穴が開けられていますが、中央の穴がいちばん大きくて人の背の高さほどあって、その周囲にある4つの穴は人が通るには狭すぎるので、中央の大きな穴が洞窟への出入口で、その周囲の4つの穴は明かり窓なんでしょうか?
キリシタン洞窟礼拝堂のすぐ横にある洞窟です。ここはかなり広くて禁教時代には宣教師が隠れ住んで布教を続けていたと伝えられています。
ここにはキリシタン洞窟礼拝堂の案内板もありました。
洞窟内を格子の隙間から撮影してみると、正面には漆喰を塗り固めて祭壇のように加工された部分がありました。この中央部に十字架やマリア像などが置かれていたんでしょうね?
洞窟の底部はこんな感じで、内部は数人も入れないような狭さに見えましたが、説明板によると幅3m、奥行き3m、高さ3.5mと書かれていたので6畳近い広さがあるようですね。
隠れキリシタンの礼拝堂といえば、陸の孤島の様な山奥の発見されにくい場所などにありますが、ここでは稲荷神社や武家屋敷のすぐ近くに礼拝堂を作ることで、灯台下暗しじゃないですが、逆に発見されずに弾圧を逃れることができたのかもしれませんね?
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